「クォンタム・ファミリーズ」を読み終わった


イブの夜にひとりで読み終わりましたよ。ええ。


結論:これは村上春樹への挑戦状である。


少なくとも「1Q84」は期待していたほどのできではなかったし
それに比べるとこちらの完成度はよっぽど高い。
いわゆるライトノベルとかは読んだことがないので
その辺の影響についてはよくわからないが
短い文章で状況を描写していくというのがそれなのかなと漠然と思った。

「ハードボイルドは正義ではない」


この一節が重要だ。
チャンドラーの有名なフレーズ*1の変奏ともアンチテーゼとも読める。
そして、春樹が愛し自らに課しているある種の「タフさ」についての本質的な批判をはらんでいる。


それは、東浩紀とこの物語の主人公がともに子どもを持ち
主題でもある「家族」をめぐってぐちゃぐちゃと這いずり回るように生きているのが象徴的である。
村上春樹であれば、それは全て捨象され、すべてが「ぼく」のタフネスに回収され
すべては近代都市に生きる匿名的な(そしてだからこそある種普遍的な)平板な人生となる。
そこでは、料理の細かな手順や生活の細部を事細かに描くことによって具体的な「生活」をつくりだすが
それはどこまでいっても、俗世のしがらみを削ぎ落としたあとの無機質さを伴っている。


「ハードボイルドは正義ではない」
それは、こうした村上春樹的倫理に対する異議申し立てなのだ。


35歳。結婚もし、こどももでき、いやがおうにも流されていく。普通だ。
しかし、たとえ結婚を拒み、子をもつことを拒んでいたとしても
「ぼく」の人生の陰にははっきりと「死」が寄り添ってくる。
村上春樹はそれをハードボイルド的倫理で乗り越えた(いや、いまも乗り越えようとしているのだろうか)。
しかし、そのタフネスはある種の空虚さを持っている。
そして人は、その空虚さをこそ恐れる。
だからこそ、春樹の小説の主人公は泣いてしまうのではないか。


いくら自らを鍛錬して磨き上げても、それは必然的にいつかは失われるものだ。
それは真理である。
ではそれに対して、春樹的タフネスは有効なのか。
確かに有効「だった」のだろう。
しかし同時にそれは、ハードボイルドワンダーランドのなかで、永遠の「35歳」として生きなくてはならない、ピーターパンになることではなかったか。


そこで東浩紀は問うているのだと思う。
「あなたはもう35歳ではない。35歳ではない以上、永遠の35歳として生きる「タフさ」に対して、メタ的なもうひとつの「タフさ」がなければ、次の「ステージ」には進めない。あなたにはそれが分かっているはずだ。つまり「ハードボイルドは正義ではない」ということだ」


来年には「1Q84」の第3編が出るはずである。
われわれはそこにメタ的な新たなタフさを見いだすことができるだろうか・・・


クォンタム・ファミリーズ

クォンタム・ファミリーズ

*1:「タフでなければ生きて行けない。優しくなれなければ生きている資格がない」